【4年の長い歴史的公会議】コンスタンツの歴史①
コンスタンツに住んでいて、全然知らなかったこの街の歴史について、以前、ドイツ人の知人に教えてもらい結構興味深かったので自分でもネットでみつつ、歴史素人なりに補足しつつまとめてみます。
旅行したら「なんかおいしいものでもたべたい!」とかばっかおもっちゃってすみません!!!!
「コンスタンツ公会議」と「インペリア像」(後半)の2点について書いていきますが、歴史はあまり得意ではないのでかなりはしょった説明になっているかもしれないですがご容赦ください。
コンスタンツ公会議
コンスタンツに降り立つと、駅の近くにこのような建物があります。
1階はレストランなのですが、実はこの建物はとても歴史的な意味があります。
1414~1418年(日本だと室町時代。勘合貿易が始まったころくらいですね)に、コンスタンツでは中世でも最も大規模とされる会議である「コンスタンツ公会議」が開かれました。
4年も会議してたんかい、長いな…。
公会議とは、ローマ皇帝(第8回からは教皇)が主催し、全教区の枢機卿、司教、神学者など(支配層のえらい人たち)を集めて、教会の教義や規則などの重要事項について議論する最高会議のことをいい、コンスタンツ公会議はローマ=カトリック教会公認のもの21回の中の第16回目にあたります。
当時、ローマ帝国では教皇の権威が失墜しており、まさかの教皇が3人もいる、というような状態でした(普段は1人なのが戦争とか権力闘争などで分裂していた)。
この状況を解決しよう、と神聖ローマ皇帝ジギスムント・フォン・ルクセンブルクはコンスタンツ公会議を提唱しました。
ここでポイントなのは提唱したのが「皇帝」。皇帝は政治のトップで教皇は宗教のトップ。中世の歴史では、皇帝のがえらいのか、教皇のがえらいのか、という争いがよくありました。
ですので、皇帝はここぞというときに公会議を提唱し、この会議で皇帝の権力をあげることをもくろんでいました。
(教会内でごたごたやってますけど皇帝がきたら解決するんだぜ、というアピールをしたかった)
教会側からすると、教皇権力の分裂を終わらせて一体化を回復し、同時に教会改革・農民の反体制運動を抑えつけることが目的とされました。
コンスタンツ公会議の議題
- 教会分裂を収拾する
- 教会の改革(いわゆる頭と肢体の改革)を行う
- 教会内の異端を一掃する
以上の3つが議題でした。
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教会分裂を収拾する
現職の3人の教皇は退位させられ、新たな教皇がたてられることになりました。
もちろん現職の3人は自分が退位するなんて嫌なので逃げたりなんなりしたので すが、結局とらえられたりしてやむなく職を失います。そうして公会議は新教皇としてマ ルティヌス5世を選出します。
2.教会の改革を行う
3.教会内の異端を一掃する
当時、ヤン・フスというチェコ出身の免罪符反対などして教会に目をつけられていた宗教思想家のフスが火あぶりの処刑にかされることになりました。
当時のコンスタンツの人口
当時、コンスタンツは6000人の人口しかいませんでした。
えらい少ないですね。
なのにもかかわらず、コンスタンツ公会議の参加者は10倍以上多い7万2000人だったんですね、これは大変。
しかしコンスタンツ公会議を機会としてそれ以降人口が増えていったそう。
公会議場の今
公会議で使われた場所はコンスタンツ中央駅からすぐのところにあり、現在はレストランの上にあり、イベント開催ホールとして使用されています。